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2018年12月

2018年12月22日 (土)

「置きエサ」改め、今後は「放置エサ」

エサを置いたまま放置すると、匂いにつられて周辺地域の猫が集まりやすくなります。

猫にはテリトリーがありますが、それでも、「いつでも食べ放題」の現場にはテリトリーを超えて猫がやってきます。

このような現場では、頑張って去勢不妊手術をしても、次々と新入りの猫が現れるので、対策の効果がとても上がりにくいです。

この「エサを置いたまま放置する」行為を、
これまでは
『置きエサ』
と呼んできました。

正式名称という訳ではなく、昔からなんとなく皆でそう呼んでいたのです。

そこで、地域猫活動が行われている現場では、
「置きエサは止めましょう」
というチラシが配られていたりします。


ところが。

最近、
「エサを地面に置いている。したがって、これは『置きエサ』だ。『置きエサ』なのだから禁止だ。」
という解釈がなされる現場のことを、耳にしました。

それぞれ全く関連の無い、複数の現場でのことです。

もちろん、エサをエサ皿に入れて地面に置き、猫の食後は即座に片づけている現場です。

ですが・・・。
言われてみればたしかに、エサを下に置いていることは間違いありません。

「置きエサは止めましょう」
とすると、エサを空中にぶら下げるほかはありません(^^;


「なるほど~。」と、妙に感心してしまいました(^-^)

たしかに。
誤解を招く表現かもしれませんね。


そこで今後は、
『置きエサ』という用語を改め、
『放置エサ』
『エサの放置』

と呼ぶこととします。

講演資料も、年末年始の時間を使って改訂します。


「置きエサは止めましょう」

改め

「放置エサは止めましょう」
または
「エサの放置は止めましょう」

今後、私はこれでいきます(^-^)

2018年12月20日 (木)

耳カットの意義

先日、家庭の用事で熊本の親戚宅に行きました。

用事の合間に水前寺公園に行ったのですが、門の前の商店街にノラさんが。

目を凝らして耳をチェックする私。

耳カットされていました!

ついでに激写!

Suizenjipark



2008年に私が地域猫活動について学んでいたとき、愛猫家さんや獣医さんの中で、「耳をカットするなんて、可哀想だ。虐待なのではないか。」という声が少なからずありました。

また、
「耳カットの方法は、耳先V字カットと水平カットのどちらにすべきなのか」とか、
「耳カットではなく、ピアスや刺青を試している人もいる。どの方法が一番良いのか。」など、
真剣に議論されていました。

「さくらねこ」などという洒落た呼び名が誕生する以前のお話しです。


あの頃に比べると。。。。。

九州に行っても、沖縄に行っても、どこに行っても、耳カットのノラさんに出会うことができるなんて、隔世の感があります。


時代は着実に変わっています。

そして、まだまだ変わっていくと、私は信じています。


ところで、耳カットの意義について、私には持論があります。

よく言われている「耳カット」の意義は、
「手術済であることの印を付けることで、手術済の猫が再度手術台に乗ってしまわないようにする」
ということだと思います。

もちろん、そのとおりだと思います。

ですが、それに加えて、私は、地域猫活動の視点で、以下の3点も耳カットの重要な意義だと思っています。

一つ目
「手術済の猫か否かが一目で分かるので、未手術猫の流入を即座に把握できる」

二つ目
「耳カット猫さんが地域に増えていくことで、住民に安心感が広がっていく」=「ノラさんが地域で受け入れられやすくなる」

三つ目
「耳カット猫さんが地域に増えていくことで、ボランティアさんが対策をどんどん進めていることが一般住民にもはっきり分かる」=「ボランティアさんが地域住民から応援してもらいやすくなる」

特に、二つ目と三つ目が重要だと考えています。

耳カットの猫さんは、地域猫活動の最大のスポークスマンだと、私は考えています。

実際、私自身が家の周りで対策をしたとき、何人もの方に
「耳先カットの猫を見ましたよ!」
と声をかけていただき、とても嬉しかったのを覚えています。


遠くない将来、猫に何の関心もない人でも耳カットの意味を知っている、そんな世の中になってほしいと願います。

そのような世の中になれば、地域社会においても、ノラさんを受け入れる下地ができているはずだからです。


この10年間で、耳カットを巡る状況が大きく変わったように、この先の10年もまた、色々なことが変わっていくと、私は信じてます。

きっと、まだまだ先に進みます。

2018年12月 7日 (金)

地域のごく普通の方が

先日、ある地域猫セミナーで講師をさせていただきました。


主催してくださったのは、ごくごく普通の個人です。

いわゆる動物愛護家ではありません。猫はお好きですが。

ご主人や、賛同しているご近隣の方も一緒になり、立派な会を開催してくださいました。

町会の役員さんや行政マンも聞きに来てくださいました。


世間的には普通の地域猫セミナーかもしれません。

けれども、私としては、本当に感慨深い会でした。

というのも、本当に只の地域住民である方が、ノラ猫トラブルをきっかけとして、悩み苦しみながら少しずつ前に進み、ついにセミナー開催に至ったからです。


初めてお会いしたのは数年前、別の自治体の地域猫セミナーでした。

地域のノラ猫問題をなんとかしたい、という悲痛な思いが伝わってきました。

そして、先輩ボランティアさんにも相談しながら、一歩一歩前に進んできたのです。



ごく普通の地域住民の方が、ノラ猫対策を通して、どんどん頼もしくなっていく。

そんな姿を、沢山見てきました。

たとえば、有名なねりまねこさんも、ごくごく普通の地域住民であり、家の周りの対策のみでスタートした初心者さんでした。

有名になった今でも、ご自宅のある町会と、周辺町会だけが活動エリアです。



広域で活動する必要なんて、どこにもありません。

自分の家の周りの猫問題を収束させることができれば、それで十分だと思うのです。

私自身がそうでしたし。

もちろん、余力があって、もっとやりたいと思うならば、さらに活躍するのもアリだとは思います。

それぞれが、自分の生活を守りながら、できる範囲でやればいいと思うのです。



地域に住んでいる「ごく普通の猫好きの方」が、自宅の周りのノラ猫問題を、近隣に声をかけながら収束させていく。。。。。

そういう方が日本中に沢山増えれば、そして、そんなのが当たり前の世の中になれば、ノラ猫問題はこの世から消えると思うのです。

そういう世の中になれば、日頃からご苦労されている、ノラ猫対策のボランティア団体さんも不要になると思うのです。

夢物語のようですが、一応、そんな理想が動機となっておりまして、(自称)普及啓発ボランティアをさせていただいています。



家の周りだけだったら、ほんとに、ちょっとの勇気で、誰にでもできます。

でも、成功するにはやり方があります。コツもあります。

ですので、もし、この拙文を読んでいくださっている方で、現に今、ノラ猫トラブルで悩んでいる方がいらっしゃるならば、まずは地域猫セミナーにいらして、学んでみてください。

もちろん、私が講師をするセミナーでなくてもよいです(^-^)



未経験者の方の「はじめの一歩」こそが、ノラ猫問題を解決するのだと、私は確信しています。

2018年12月 6日 (木)

つながりたい

今日は本格的にブツブツと独り言です。
思い付いたことをつらつらと。

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私は、私の目を通して世界を見ています。

あなたが見ている世界とは、間違いなく風景が違います。

だから、私にとっての「真実」は、世界で唯一、私だけの真実です。

そして、同じ理由により、あなたの「真実」は、あなただけのものです。


それぞれは、世界でただひとりの存在として、他の人とは隔絶しています。

誰かの真実を私が知ることは、永遠にあり得ません。

何故なら、「私」は「あなた」ではないから。


だから、私は「正義」とか「真実」という言葉を疑います。
絶対正義などこの世にはないのですから。


隔絶しているのに、いや隔絶しているからこそ、人は、他者とつながりたいと切望します。

決して他者の「真実」を知り得ない隔絶した個々人が、それでも相手を知りたいと切望して、他者に向かって必死に手を伸ばし、「誰かとつながりたい」と願う、この切ない行為こそが、生きていくことそのものだと私は思っています。


だから、自分の価値観で他者を裁く行為は、本当に嫌なのです。


対立と分離から、認め合いと共存へ。

不寛容から寛容へ。


「あなた」は「私とは違う考え方」だからこそ、価値がある。

「私」は「あなたとは違う考え方」だからこそ、価値がある。


分かり合えないからこそ、分かり合いたいと切望する。

分かり合いたいと切望するからこそ、「気持ちがつながる」


立場や価値観の違う人々が認め合い、どんどんつながるから、地域猫活動が好きです。

私にとっては、地域猫活動は、単なるノラ猫対策を超えて、他者と関わらなくては生きていけない人間のあり方、そのものに思えるのです。

地域猫活動は、愛。思いやり。平和。

言い過ぎかなぁ。


な~んてことを偉そうに書きながら、日々誰かを自分の価値観で断罪している私。

せめて、自分だけの正義で生きているのだと、お話しにならないくらい独善的なのだと、それだけは自覚し続けていないと、いよいよ自分がダメになってしまいそうで、怖いなぁと思っています。

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