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2018年11月

2018年11月24日 (土)

楽しくやらないと広まらない

以前にもちょっと書きましたが

「ウチの行政はまったくやる気がなくて」

「行政に何度も要望しているのだけれど、うまくいかない」


という話をよく聞きます。

で。

最近、突然、頭に浮かんだセリフが以下です。

「猫も行政も、追いかけると逃げていく。」

ただの思い付きのセリフですが、たぶん、これ、真理のような気がします。


じゃ、どうすりゃいいのさ、ということになりますが・・・。

相手に何かしてもらおう、なんて望まなければいい、と私は思うのです。

誰に強制されたのでもない、自分の活動なのですから。

ただ、相手と仲良くなればいいだけです。

そして、明るく、楽しく、あくまで自分のできる範囲内で、誰かの役に立つことを、全力で頑張る。

誰のために?

自分自身の人生を輝かすために。



人は、楽しいことが好きです。

加えて、みんな、誰かの役に立ちたいという、潜在的な願望を持っています。

だから、まず自分自身が楽しみながら、誰かの役に立つ活動をしていれば、自然と仲間が増えてきます。

楽しく地域貢献して、それが街で評判になれば、行政側も興味を示すようになります。

要するに、
  1. なにはともあれ、仲良くなる。
  2. 楽しそうな姿、地域の役に立っている姿、これを見せる(知らせる)。

「ウチの商品はとても良い品ですから、あなたは買うべきです。」

と店員さんに言われて、素直に購入するでしょうか。

「あそこのお店、いいよね」という街の評判があり、どんなもんだろうと思って、お店を覗いてみると、お客さんも店員さんもみんな笑顔で、商売が繁盛しているとすれば・・・、

「ちょっと買ってみようかな。」
という気になります。

要求するのではなく、従わせようとするのでもなく、

「楽し~く、地域貢献している姿を、見せておく(知らせておく)。」


以前にも書きましたが・・・、

辛く厳しい自己犠牲は、美徳ではない、と私は思っています。

「自分の生活を犠牲にして、こんなに頑張っているのに!」

辛さ、苦しさに耐え、周囲の無理解と闘いながら、一部の仲間で結束して(あるいは単独で)戦っていく。
これでは、ますます社会から孤立してしまいます。


そうではなくて・・・、

まず、楽しくやりましょう。

楽しくないのならば、何かが間違っていますので、修正してリスタートしましょう。

自分自身の人生を輝かすための、尊い活動です。


「でも、あまりにも無理解な人が多いですよ。」

そうです。

社会一般は無理解です。

なぜなら、何も知らないからです。

相手は、「素人」なのです。

素人相手に、活動者が「正論」を投げつければ、相手はビビッて、反発するか、逃げるか。
つまり、断絶を招くだけです。

勝つとか負けるとか、どっちが正しいかとか、そんなセコイ話ではないのです。

必要なのは、対立と分離ではなく、対話と融和です。


誰だって(もちろん私にも)、自分の正義があります。

誰だって、自尊心は絶対に譲れないのです。

それだけなく、社会人たるもの、誰だって、自分の社会的立場に縛られています。

自分の社会的立場を気にしないで言動ができるような自由人は、ごく僅かです。


ですから、相手の立場に共感し、相手の正義を受容することから対話が始まります。

共感と対話によって、人と人がつながります。

人と人がつながれば、地域の猫問題は解決したも同然だと、私は思うのです。


「そんな、うまくいくことばかりじゃないよ!」

そのとおり。

失敗例もたくさんです。

ですが、成功例だってたくさんです。

どんな人でも、他者に認めてもらいたいと、潜在的には思っています。

どんなに孤立している人も、人と仲良くやりたいと、心の奥底では思っています。

ですから、どんな人が相手でも、対話できる可能性がどこかにあります。


人と人がつながっていく。

少なくとも私の場合は、人と人がつながるのが楽しくて仕方がないからこそ、愛猫家でもないのに、地域猫活動にハマっています。


楽しくやっていると、人と人がつながって、広まっていきます。

でも、そもそも、ひとりか、あるいは数人が、無理なく楽しく活動することが、源流なのだと、私は思うのです。

源流となる、ごくごく小さな、でも楽しく地域貢献する活動が、日本各地で行われれば、流れが合わさって、いつか大河となるのだと、そう私は信じています。



う~。
私、説教は嫌いなのです。

人様に講釈を垂れるような、立派な人間ではないのです。

自信もない。

なのに、読み直してみると、ホントに、説教臭いですね。

イヤだなぁ。申し訳ありませんm(__)m

2018年11月14日 (水)

熱いハートとクールな脳みそ

先日、あるセミナーで、講演とパネルディスカッションをさせていただきました。

パネルディスカッションの際に

「ボランティアは、目の前の命を助けたいと思う。行政はそうではない。このことについてどう思うか。」との質問がありました。

私は、自分が冷たい心の持ち主であることを自覚していまして、

「すべての猫を助けることはできません。猫対策は戦争と同じです。次々と戦線を拡大したら潰れます。ひとつの現場がちゃんと終わってから、つぎの現場に移るべきです。大変な現場の10頭に時間をかけるならば、簡単な現場の10頭を助けるべきだと思います。」

と言い切ってしまったのですが・・・。

目の前の10頭を後回しにできない愛猫家の皆さんの気持ちも分かるのです。
後回しなんて・・・。
冷たすぎますよね、ホントに。

でも、絶対に、絶対に、潰れてほしくない。

愛猫家さんの足下を見て丸投げしようとする人々の犠牲には、絶対に、なってほしくない。

という思いが強すぎたのでしょう。
ついつい口調がきつくなってしまったと思います。

こう見えても、あれこれ気にする性格でして・・・。


私は、猫のことは好きでも嫌いでもありません。

けれども、いわゆる猫ボラさんのことは、大好きです。

猫ボラの皆さんは、優しいし、繊細な方が多い です。
弱い立場の動物を放っておけない方々なのです。
弱い立場に共鳴する魂の持ち主なのです。

だからこそ、私は、ボラさんの繊細さにつけ込むような行為が許せません。
いいように振り回されているボラさんを見ると、切なく悲しい気持ちになります。


ノラ猫問題は、行き当たりばったりの玉砕戦法では解決しません。

「熱いハートと、クールな脳みそ」

私は、学生時代、学生オーケストラに所属していたのですが、トレーナーの先生が、良い音楽を奏でるために必要なこととして仰っていた言葉です。

万事に当てはまることとして、私の座右の銘でもあります。

何かを本気でやろうとするなら、燃え盛る情熱は絶対に必要です。
同時に、感情に流されず、冷徹な頭で、戦略的に物事を進めることも、絶対に必要です。

何よりもまず自分を大切にしながら、自分の生活に見合う、持続可能な活動スタイルを確立してほしいと思います。

アクセルを踏みっぱなしにすれば物事がうまくいく、とは限りません。

まずはちゃんと自分を大切にすることが、他者(猫を含む)を大切にする前提だと思います。


猫活動は、本来、人生を豊かにする素晴らしいものだと思います。

その猫活動が涙の原因とならないように。

どうか、皆さんの猫活動が、皆さんの人生をより輝かすものとなりますように。

2018年11月 8日 (木)

猫は可愛いから得

先日のセミナーの打ち上げで、ある親しいボランティアさんに聞いてみました。

「なんで、猫を大切にされているんですか?」

「命」だと言うならば、ネズミも、ヘビも、カラスも、み~んな大切な命なのに、なんで猫の命だけが大切にされるのか・・・。

今の猫は、ネズミも捕らず、ゴロゴロしているだけで、特に役に立っていないのに・・・。

ボラさんの返事は・・・、

「そうねぇ。なんでかしらねぇ・・・。よく分からないのよ。」

そのとき、誰かがスマホで、子猫の写真を皆に見せました。

「わぁ!可愛い~~~!やっぱり、可愛いよね~。

と、皆で盛り上がり・・・。

思わず私は笑ってしまいました。

そうなんですよね(^-^)

猫好きでない私でさえ、猫が可愛いということは否定できません。

だから、「子猫を殺すカラスは悪者。子猫を何とかして守らねば。」となるんですよね。


でも。

カラスは悪意があって子猫を捕えているのではありません。

本能です。


「猫は善、カラスは悪」という善悪の価値判断を混ぜているのは人間

そして、人間の価値判断の基準は、自分の気に入る存在か、気に入らない存在か。

今回のテーマに即して言うなら、可愛いか、可愛くないか


自分の気に入る存在は善。

自分の気に入らない存在は悪。


だから、ヘビとかカラスとか、ちょっと気の毒ですよねぇ。

ちょっとばかり見た目が悪くて、ちょっとばかり人間にとって厄介なだけで、自然の摂理を乱すことは何もしていないのに、あんなに人間から邪険にされて・・・。

むしろ、自然界にとって、もっとも迷惑な存在は人間なのではないかと(^^;


別に、猫が好きであることがいけない、と言うつもりは毛頭ありません。

可愛いのは事実だし。

ただ、「猫って、可愛いだけですっごく得しているんだな。」と思ったのと、

あと、「すべての命は平等だ、なんて、やっぱり幻想だな。」と思ったのと、

あと、「これだけ愛されている、ってことは、猫ってやっぱり人間の仲間なんだな。」

と思ったのでした。


要するに、「仲間の命を守りたい」ということな訳です。

ところが、「猫は仲間」と思っていない人もいる。

そういう人にとっては「仲間でないので特に大切な存在ではない」

そういう人に「命は平等」と言っても、論理矛盾がすぐにバレます。


そこで、「猫に関連するイライラ要素」を除去することが肝心な訳です。

イライラとは何か。

どんどん子猫が生まれること。

フンの被害が酷いこと。

エサやりしている人が「挨拶もせず、感じが悪いこと」「マナーを守らず不潔なこと」


エサやりしている人が、爽やかに挨拶をし、きちんとマナーを守り、近隣の困りごとに真摯に耳を傾けて対策すると、それだけで街の空気は変わり始めます。

猫問題は人間関係の問題。

「イライラ要素が除去される」=「猫って可愛い、と思う人が街に増える」

猫が好きな皆様、猫が嫌われる「イライラ要素」を除去して、猫が魅力が人々にもっとストレートに街の人々に伝わるようにしましょう!

そのためには、猫好きの皆さんひとりひとりが、街において「感じの良い人」であることが、なによりも大切です。

猫のために、善い人になりましょう!

と、猫好きでない私が熱弁するシュールさ・・・。

毎度のことですが、放言の数々、すみません・・・(^^;


でも、本音を言いますと・・・、

猫のような生き物が温かく見守られている街は、間違いなく人にも優しい街です。

私は、そういう温かい街を増やしたいと、これは本気で思っているのです。

2018年11月 6日 (火)

何をもって地域猫活動というのか

地域猫活動を巡って、よく議論が行われます。





どのような活動が正しいのか、正しくないのか。



こうあるべき、そうあるべき。



あれは違う、これは邪道。





たくさんの議論があること自体、この活動は定義しにくいということです。


地域猫活動の大きな特徴のひとつに、「地域の事情に応じてアメーバのようにスタイルを変える柔軟性」があります。



たとえば、私の師匠である元・新宿保健所の高木さんは、『新宿区における地域猫対策の分類』という資料の中で、個人・グループによる対策、複数の町会にまたがる対策、企業との連携による対策など、9つの活動スタイルに分類しています。



新宿区という、それほど広いわけではない自治体においてさえ、9つに分類される訳です。



この資料は、とても参考になります。



先日、高木さんにお願いして、資料掲載の了解をいただきましたので、そのうちにHPにアップしようと思っています。





「それならば、どんな活動であっても、みんな地域猫活動と呼べばいいんじゃない?」


でいいのかというと、さすがに「なんでもアリ」という訳ではなくて・・・(^^;





「地域猫活動」あるいは「地域猫対策」と呼べるか否かは、歴史的経緯を踏まえて考えるのがよいと、私は思うのです。





「地域猫」というネーミングをしたのは、皆さんもご承知のとおり、元・横浜市保健所職員の黒澤泰さんです。



黒澤さんの『地域猫のすすめ』という本を読んだ人も多いと思います。



以下は、その本の内容です。





黒澤さんは、横浜市衛生局に在籍していた1990年に、磯子区のとある団地で行われていた「みんなの猫」という活動について、耳にします。



団地住民が責任をもってノラ猫の面倒を見る活動で、去勢不妊手術の費用は、年に2回の「ねこバザー」で賄っている、というものでした。



「ねこバザー」という妙な名前が印象に残った黒澤さんですが、そのときは特に何も起こりませんでした。



そして、黒澤さんは、5年後の1995年、衛生局から磯子区へと異動します。



いよいよ、ここから歴史が動く訳です。



団地のお祭りに行った黒澤さんは、祭りの一角で行われていた「ねこバザー」を、実際に目にします。



バザーの品は、団地の皆から集められた不用品の数々。



『お客である団地の住民に対して、猫を増やさないためのバザーであることを明確にしながら、猫との共存を呼びかける活動を数人の主婦たちが交代でやっていた。本当によく人が集まり、よく売れていた。』『不妊去勢手術のお金も稼げるし、猫問題に対して住民の理解を求める場にもなっている。一石二鳥の活動なのである。』

〔「地域猫」のすすめ〕より



これだ!と確信した黒澤さんは、これを参考にして、行政マンとして行動していく訳です。

すごいですね。



いずれにせよ、原点は、猫が好きな地域住民による、地域の皆に「猫を増やさないために」とアピールしながら行う、ノラ猫と地域住民との共存を目指す自主活動だったのです。



そこには、「地域猫活動ボランティア」も「地域猫活動を推進する行政」も存在しません。



地域の猫好きグループと、それ以外の地域住民、この二者だけです。





一方、まったく同時期に、東京都新宿区でも、動きがありました。



新宿区のある町において、おばあさんがせっせとノラ猫にご飯をあげていました。



そして、どんどん子猫が生まれていました。



それを見た一人の女性が、「おばあさんはご飯をあげる人。ならば、私は手術をする人になろう。」と決意し、行動に移します。



この方こそ、現在はNPO法人ねこだすけの代表である工藤久美子さんです。



工藤さんは、単に手術をするのではなく、地域住民に声をかけ、コミュニケーションを取りながら、対策を進めていきました。



フン被害に対しては、猫トイレを作ったりもしました。



こうやって、この現場では、人とノラ猫との共存が図られたのです。



これが、地域猫活動の、もうひとつの原点です。



この現場も、磯子区と同様に、「地域猫活動ボランティア」や「地域猫活動を推進する行政」は存在しません。



地域の有志(工藤さん)と、エサやりのおばあさん、そして一般住民だけです。





その後、地域猫活動は、町会が関わったり、行政が関わったり、様々なスタイルが現れます。



町会等住民団体、専門ボランティア、行政による「三者協働」が最もうまくいく、というモデルも、NPOねこだすけさんにより提唱されています(もちろん、それが理想です)。



ですが、上記2つの原点を踏まえると、基本がどこにあるかは明らかだと思います。



「地域住民とノラ猫が共存する地域をつくるため、住民と積極的にコミュニケーションを取りながら地域のノラ猫問題を解決していく、そういう地域住民自身による自主的活動」



いろんな発展形がありますが、上記内容に当てはまるか否かが、地域猫活動と呼べるための基本要件ではないかな、と私は思っています。



活動の規模は関係ありません。



たとえば、工藤さんはずいぶん以前から、セミナーなどで、



「向こう三軒両隣に声をかけて、自宅の庭に来るノラ猫の去勢不妊手術を行う。そして、近隣には、何かお困りのことがありましたら仰ってくださいね、と声をかけていく。これが、最も簡易な形態の地域猫活動。」



と仰っています。



思えば、2008年、初めて工藤さんに話を聞いたときに、「地域猫活動は、原則として、その地域に住んでいる人がやるものなのよ。」と教わったのでした。





とは言え、住民同士が激しくケンカをしている場合は、利害関係のない外部地域のボランティアが現場に入って両者の言い分を聞いた方が、スムーズにトラブルが解決します。



あるいは、ノラ猫が増えすぎて苦情が噴出しているものの、対策方法を知る住民が誰もいない場合には、やはり、対策方法を知る外部ボランティアが現場に入らざるを得ません。



しかし、たとえ外部ボランティアが仕切っていたとしても、地域住民が何らかの形で自主的に関わることが最重要です。



どんなことでもいいと思うのです。



たとえば、庭に捕獲器を置くとか。



寄付するだけでも、十分に参加です。



もちろん、毎日の定点定時のエサやりは、立派な参加です。



そうやって、住民自身が「自分たちの問題なんだよなぁ。」と感じて、活動趣旨を理解し、何らかの形で協力しているのであれば、地域猫活動と呼べると私は思います。





結局のところ、どこまでも主役は地域住民。



だからこそ、地域猫という名称があるのだと、私は思っています。

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