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2018年8月

2018年8月24日 (金)

エサやりしちゃいけないんですかね?

エサやりは、ノラ猫対策のカギです。

あえて言います。

ノラ猫の数を減らすためには、対策の理に適ったエサやりが不可欠です。


対策の理に適ったエサやりってなんでしょう。

皆様には釈迦に説法かと存じますが・・・。


〔地域社会で困ったことになる恐れのあるエサやり〕

置きエサ。
  1. 長時間エサが置いてあるため、周辺地域からどんどん猫が集まってくる。
  2. したがって、いくら手術してもキリがない。
  3. いわば、「猫を集めながら手術している」という状態になる。
  4. カラスやハエも集まり、ご近所トラブルの元。

〔ノラ猫の数を減らすために不可欠なエサやり〕

毎日、同じ時間、同じ場所でエサやりし、猫の食後はすぐ片付けて清掃。
  1. 猫の腹時計は非常に正確。
  2. したがって、毎日同じ時間に同じ場所でエサやりをすると、ぴったりその時間に猫たちが集結するようになる。
  3. エサの時間に集結するので、頭数を正確に確認できる。
  4. 捨て猫なども、エサの時間に姿を見せるので、すぐに分かり対処できる。
  5. 捕獲もエサの時間にすればいい。一晩中の待機などはしなくて済む。
  6. すぐ片付けて、その後は絶対にエサを与えないようにすると、猫は、食後にエサ場にいても意味が無いことを学習して、食べたらどこかに行ってしまう。
  7. エサは出来る限り、頭数分に小分けにする。これにより、猫が順番待ちしながらエサを食べるのではなく、強い猫も弱い猫もみんな一斉に食べることができるので、エサやりの時間が非常に短縮できる。短時間のエサやりとなるので、苦情を言われにくくなる。
以上のような、「清潔で」「手早く」「合理的な」エサやりは、その地域の猫たちの動向を把握し、対策を進めていくために不可欠なものです。

「ノラ猫対策のためにエサやりを禁止すると、それが原因でノラ猫対策ができなくなる」
という滑稽な状況になります。


ところが。

世間では、エサやりこそがノラ猫被害のを増やす元凶だと思われています。

この考えは、日本人の心の底にこびりついているようです。

「エサやり=迷惑行為」

エサやりしていると、それだけで注意されたりします。

我々の理屈で言えば、「置きエサは悪で、定点定時のエサは善」、ということで問題ないでしょうか。

私はエサやりしていませんが(そもそも愛猫家でない)、実は、どんなやり方であれ、エサやり自体がそんなに悪いものとも思えないのです。

たしかに、「置きエサ」は地域環境の悪化につながる危険が大です。
置きエサはしない方がいいのは、間違いないです。

でも、置きエサって、悪事でしょうか?
私は、取り締まらねばならないような悪事とまでは、とても思えないのです。


「正しい」エサやりと、「正しくない」エサやり、というような区分は好きではありません。

それは、愛猫家さん同士を「正義」と「非正義」に分断し、対立を招きます。


置きエサをしている方にしてみれば、悪意ではなく、むしろ、善意による行為です。

猫のことが心配だからこそ、人目を避けてでもエサやりを続けているのです。


エサの与え方のことは、あくまで「マナー」「エチケット」の問題であり、「ルール」とまでは思えないのです。

たとえば、ルールを決めて皆で監視したり、厳しく注意したり、特定の人以外のエサやりを禁じたり、というような、たかが猫へのエサやりで、そんな窮屈な地域って、住んでいて楽しくないです。


「みなさ~ん。猫のために、マナーは守りましょう。よろしくお願いしま~す(^-^)」
くらいのユルさが、私は好きです。

SNSなどで時々見かけるような、マナーを守らない(あるいは、守れない)エサやりさんのことを、厳しく非難したり、馬鹿にしたり、そういうのは嫌いです。


「おいおい、好き嫌いの話かよ」
と思われるでしょうが・・・。


地域猫活動は地域の人々の心を平和にするための活動です。

少なくとも、私の解釈はそうです。

猫が好きな人も、猫で被害に遭っていた人も、みんなが安心して暮らせる地域にすることが目的です。

地域のエサやりさんが、「ルールを守っていない!」と厳しく責められるならば、エサやりさんの心は、安心、平和からは程遠いことになります。

しかも、注意する側と、注意される側、どちらも愛猫家さんだったりします。


私は、
「エサやりさんが、安心してエサやりできる地域になったら、活動成功」
と考えています。

もちろん、様々な考え方があります。

エサやりしている方も、もちろん様々な方がいらっしゃいます。

人の心はそう簡単ではありません。


ですが、私としては、

「人の心に寛容な地域社会」

を目指したい。

こんなことを書いている私自身、イラつくことも多く、まるでダメではあります。
それでも、「どんな人も見捨てない」「どんな人も丁寧に接すればいつか変わるはず」と信じて、コツコツ進みたいと思うのです。

日々反省と後悔の連続ですが・・・。

猫にエサを与えている人、猫で困っている人、それぞれの心に寄り添うことを最優先に考え、対策の論理整合性については、「いい加減=良い加減」くらいの適度なユルさがある。

そんな風に対策を進められたら、きっと、みんなにとって楽しい地域活動となり、平和な地域になるのではないかなぁ、と思っています。


やはり、「地域猫活動は愛」ですね(^-^)

2018年8月21日 (火)

ノラ猫ゼロか、ノラ猫トラブルゼロか

「ノラ猫がゼロになる」ことを目指すのか。

それとも

「ノラ猫をめぐる人間トラブルがゼロになる」ことを目指すのか。

このブログを読んでいるあなたがノラ猫対策の活動をされているならば、どちらを目指していますでしょうか。

どちらも正解だと思います。
しかし、全く考え方が異なりますので、両立はしません。

したがって、どちらでもよいのですが、どちらか一方、自分の信じる道を進むということになります。


「外で暮らすのは過酷だ。だから、とにかくノラ猫ゼロを目指す。」
アリだと思います。

この場合、とにかくTNR、そして保護譲渡、ということになると思います。

地域の方々にあまり気を遣っている時間はありません。
寸暇を惜しんでTNR&保護譲渡に邁進し、不幸な猫を減らしていくこととなります。

ローラー作戦で一気に対策を進めることのできるような、猫の頭数の限られた小さい自治体ではかなり有効だと思います。

一気に頭数を減らせば、結果として住民苦情も無くなります。

ただし、一般住民とすれば、
「猫問題は愛護家さんたちが勝手にやっていること」
となりますので、住民の当事者意識は希薄となります。

「嫌いな人は嫌いなまま」ですので、「人と猫の共生」が一般住民の心理レベルでは実現していないようにも思います。

しかし、そもそも、そのようなことを目指していないのですから、数が順調に減ればOKということになります。



「ノラ猫をめぐって地域が揉めている。不毛なトラブルによって猫が嫌われ者になっているのをなんとかしたい。」
アリだと思います。

このとき気を付けたいのは
「TNR&保護さえしておけば、揉め事の元でが絶たれるので、解決だ。」
というインスタントな結論に飛びつかないようにすることです。

TNRと保護だけでは、揉め事は解決しません。
なぜなら、全頭保護はあり得ないので、必ず地域に手術済の猫が残るからです。
猫が残るということは、エサやりも続くし、困っている人の不満も残るということです。

では、どうやったら不満を解消できるのでしょうか。

不満とは、文字通り、「満たされない思い」です。

「原因は、ノラ猫がいること」と思っている方が多くいます。愛護家、苦情者問わず。

しかし、地域猫活動をされている方であればご承知のとおり、「満たされない思い」の根源は、「ノラ猫がいること」ではありません。

「満たされない思い」の正体は、現状への苛立ちと先々への不安です。
そこで、現状への苛立ちと、先々への不安、この2つを解消して差し上げれば、不満は霧散します。

「ノラ猫をめぐる人間トラブルをゼロにしたい」ならば、以下が欠かせません。
  1. 苛立っている方との丁寧なコミュニケーション
  2. エサやりしていて地域とうまくいかなくなっている方との丁寧なコミュニケーション

1の方には、
「手術しますから、もう大丈夫ですよ。一緒に被害対策を考えていきましょう。エサを与えている方にも、これ以上猫を集めないように、私から話をしておきますね。」

2の方には、
「もう大丈夫ですよ。マナーを守ったエサやりは、必要なことなのです。ノラ猫対策には、あなたの力が必要です。これからもエサやりができるように、ぜひ、協力をお願いします。苦情者さんには、マナーを守ればエサやりが続けられるように、私が話しておきます。」

苦しい気持ちを理解してくれる人。
一緒になって、一所懸命に対策を考えてくれる人。
あぁ、この人、本当にいい人だなぁ。

この安心感が、不満解消のお薬です。

もちろん、成果が出ないと、最終的には「あいつは口ばっかりだ」になりますが、ちゃんとやれば、必ず成果は出ます。

これを永続的な仕組みとしていくためには、活動者は地域住民であることが大原則です。

「他所から来たありがたい動物愛護家さん」がチャッチャと片付けた場合、地域住民に当事者意識は芽生えません。
「困ったら、またあの人にお願いすればいいさ。あの人、猫が好きなんだし。」
となります。

ごく近所の人がボラとなって、不器用でもエッチラオッチラ頑張っているからこそ、警戒心も低くなり、「話を聞こうかな」という気になりますし、「文句を言ったらなんだか悪い気がする」という気にもなります。
「あの人に免じて折れるかな。これ以上苦情を言うのも大人げないし。」という思いも湧きます。
これは、ご近所だからこその感情です。
プロっぽい手際の良さなんて、必要ありません。


ただし、派手に近隣トラブルになっていて、近所の誰も手が付けられなくなっている場合には、一切利害関係のない、外部ボラさんの介入が非常に有効な場合があります。

住民でない外部ボラさんが現場に入る場合は、「よそ者」ですから、より一層、丁寧なコミュニケーションが必要です。
外部ボラさんの丸抱えにならないように、地域の方々にも何かしら担っていただき、当事者意識を持ってもらう必要があります。
外部ボラさんは、いつか現場を離れるのですから、せっかくやった対策が永続するように、地域の皆さんに引き継いでいきます。


地域の人々の心に入り込み、「猫と共生できていなかった」人を、「猫と共生できている」人に変えていく・・・。これがとても面白いのです。
なにしろ、猫が大嫌いだった人が、飼っちゃったりするのですから。


ただし、欠点があります。

対人コミュニケーションを軸に進めますので、とても時間がかかるのです。
ひとつの地域で「猫と共生できている人」をじっくりと増やしている間に、すぐ近くの地域ではじゃんじゃん子猫が生まれていたりします。
「我が地域が、猫と共生できるようにすることが大切。あっちの地域は、あっちの住民が対策を考えるべき。アドバイスくらいはできるけれど。」
と思えるかどうか。

「ノラ猫ゼロ」を目指す方には、こんなに面倒くさいやり方はお勧めできません。
何と言ったって、バンバンTNR&保護譲渡、でしょう。


「ノラ猫ゼロ」を目指す考え方は、「ノラ猫は不幸である」という愛護観に立脚していると思います。
私は、ノラ猫は特に可哀想とは思っておらず、地域で嫌われずに安心して暮らしていけるのであれば、それで十分なのではないかと思っています。

これも、考え方の違いであり、どちらもアリだと思います。


「ノラ猫がゼロになる」ことを目指しますか。
「ノラ猫をめぐる人間トラブルがゼロになる」ことを目指しますか。

私は、「ノラ猫による住民トラブルゼロ」を目指して普及啓発をしていますが、「ノラ猫ゼロ」を目指して頑張っている方と話すのも、とても楽しい。
やっていることはまるで違いますが、連携できるところもあります。
考えていることが違うからこそ、面白い。


自らの考えには、あくまで忠実であること。
自らの考えとは全く相容れない考えの人と、楽しく対話ができること。

当然のマナーとして、考え方の違う人を公の場で非難したり揶揄したりしないこと。

コミュニケーションによって、私の世界がどんどん広がっていくのを感じます。
これがまた、止められないのです。

2018年8月14日 (火)

誠意・誠実だけを武器にして

これまで、10年ほど地域猫活動に関わってきて思うのは、

「完全な善人も、完全な悪人も、いない」
ということです。

自分の心を見つめてみれば、人に好かれる面と人から嫌がられる面の両面があって、「この性格は一生直らないなぁ」なんて思うのです。

人は誰しもそうなのではないでしょうか。

そして、ある場面では自分の良い面が表に出てくるし、ある場面では自分の悪い面が表に出てくる。


これまで、色々な方と会ってきました。

「なんだかもう、困ったなぁ。」
と思わされたことも、もちろん沢山ありました。

それは、苦情者さんであったり、あるいはエサやりさんであったり。
ファーストコンタクトでは、もう、どう対応したらよいか分からない・・・。

ところが、地域猫活動ボランティアさんならば皆さんご存知のとおり、多くの場合、丁寧なコミュニケーションによって、事態を打開できるのです。


結局、人は・・・、

「私の気持ちを分かってほしい」
「私の言葉を聞いてほしい」
「私という存在を認めてほしい」

と言いたいだけなのではないかと思うのです。
もちろん、私もです。


「話を聞いてくれる人」「気持ちを分かってくれる人」の前では、人はリラックスして、「良い面」が出ます。

「話を聞いてくれない人」「気持ちを分かってくれない人」の前では、人は頑なとなり、「悪い面」が出ます。


どうにもこうにも怒ってしまって話ができない苦情者さん。
話すことさえままならないエサやりさん。
ご近所との交流も無くなっている方。


このような方たちが、笑顔になり、ボランティアさんに協力するようになるという奇跡のような出来事を、何度も見てきました。


繰り返しの苦情者さんを拝み倒して、地域猫セミナーに連れて来た初心者ボラさんがいました。
苦情者さんのアンケートには、「理解しました。どうか頑張ってください。」と書いてありました。


様々な方が説得を試みながら、どうしても手術に同意してくださらない多頭エサやりのお宅がありました。
すぐ近所の普通のボラさんが、マメに通い、数年かけて信頼関係を築き上げ、ついに「手術をあなたに任せます。」と言っていただきました。


猛烈な苦情を仰っていた方がいらっしゃいました。もちろん、地域猫活動なんて大反対。
数か月後、「いや~助かったよ。とにかくボランティアさんにお礼を言いたくて。ありがとう、と伝えておいてね。」とわざわざ連絡をくださいました。


近隣から完全に孤立していて、家の前に大量の置きエサをしている方がいらっしゃいました。最初は、インターホンを押しても、扉をノックしても、何も反応がありませんでした。
ご近所ボラさんが、時間をかけて交流を深め、ついには、猫を動物病院に連れて行くときに、その方にお子さんを預けていくほどの仲良しになりました。


大事なのは、コミュニケーション。

でも、口が達者なら上手くいくかというと、全然そんなことはありません。

口下手でも全然OK。
大切なのは、誠意。誠実。


「こんな世知辛い世の中で、誠意と誠実だなんて、おとぎ話じゃあるまいし」と思いきや・・・。

人はちゃんと見ているのです。


口下手でも、一所懸命にご近隣とコミュニケーション。
そして、馬鹿正直に、誠意、誠実。コツコツと有言実行。

これらによって、たしかに地域の空気が変わり始めます。


誠意、誠実の力を信じさせてくれること。
地域社会のために真面目に頑張る人を、ご近所はちゃんと見てくれているということ。

私にとって、地域猫活動は、「人間って捨てたもんじゃないな」と思わせてくれるものでもあるのです。

2018年8月11日 (土)

多様性こそが強み

地域猫活動は、動物愛護活動ではありません。

地域で発生しているノラ猫トラブルを、地域住民自身の力で、手早く、合理的に解決していくものです。

つまり、「地域におけるノラ猫トラブル対策」です。

元新宿区保健所の高木さんが「地域猫活動は住民自治」と仰っているのは、そういう意味です。


ではなぜ、対策の担い手がいわゆる動物愛護活動家ではなく、地域住民ということになるのでしょうか。

住宅地における野良猫トラブルは、ほとんどが住民トラブルです。

エサやりしている方と、被害に遭っている方とのトラブルが典型ですね。


この両者のトラブル解決を考えるとき、愛護精神の入り込む余地はありません。

解決に際して、「猫の命も大切です」と愛護精神を持ち込んだらば、当然ですが、トラブルは大きくなり、大炎上です。


被害に遭っている方からすれば、

「はぁ?何言ってるの?じゃ、俺に我慢しろ、って言いたい訳?猫の命が大切とか大切じゃないとか、そんなことには興味はない!この被害、どうしてくれるんだ、と言ってるんだよ!」


SNSなどで、「動物の命に興味も関心もない」人々のことを、揶揄したり、冷酷な心の持ち主だと非難したりしているのを見かけます。


とすると、私も、冷酷な人間ということになるのでしょう。


私は、正直に告白しますが、愛猫家の皆さんのことは本当に大好きなのですが、猫の命を全力で守りたいとは考えていません。

動物愛護精神とはほど遠い価値観の持ち主です。


私にとっては、人間が第一です。
この自分勝手で、わがままで、罪深い生き物が好きです。


一方で、動物虐待などの反社会的行為には怒りを感じます。

動物が可哀想だからではありません。
調和の取れた「人間社会の秩序への反抗」だから、怒りを覚えるのです。
猫で癒されている「人の気持ちを踏みにじっている」から、怒りを覚えるのです。


猫の命が大切でもOK。
猫が苦手でもOK。
猫なんかどっちでもいい、ということでもOK。


自分の考えが正しいと、人は誰しも考えます。
もちろん、私もです。

人間とは、そういう生き物です。宿命であり、直りません。

ですが、

「私の考えが正しい」=「あなたの考えが間違っている」
ではないと思うのです。


「私にとっては、私の考えは正しい。あなたにとっては、あなたの考えは正しい。ぜひ、あなたの考えを聞きたい。一緒に何かをしたら、倍の力になりますよね。」

これが、私が地域猫活動に入れ込んでいる理由です。


地域猫活動は、人々の考え方の違いには一切こだわらず、地域課題解決に特化して物事を進めます。


地域課題の解決ですから、主役は住民です。
ボランティアさんや行政は、主役を盛り立てる係です。

地域住民の多様な考え方を受けいれることが、地域猫活動の第一歩です。

地域猫活動には、地域猫活動を否定する人の意見でさえも受けいれる、懐の深さがあると思うのです。


誤解を恐れずに、もっとはっきりと私の考えを書くならば、

「地域住民を主役とした合理的な野良猫対策であって、地域住民の様々な価値観を一切否定せずに、猫が好きな人、苦手な人、関心が無い人、誰もが共存できるような地域を作っていく活動」

を私は応援しています。

私は、極端なことを言えば、「そこさえ担保できているならば、なんだっていいんじゃない?」とさえ、思っています。


「リベラル」という言葉があります。

個人的な話で恐縮ですが、大学生の頃から、毎週日曜日は用が無い限り教会に通ってまして、ずいぶん前ですが、牧師が以下のように言っていました。

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リベラルという言葉、ルーツは宗教改革にある。
宗教改革の時代、カトリックとプロテスタントは教義の違いを巡って30年に渡り戦い、多くの人の血が流された。
そして、ついに話し合い、お互いに自分の立場は守りつつ相手の考え方をちゃんと尊重していこう、教義の違いで争うのはもう止めよう、ということになった。
リベラルとは、右とか左とかではなく、自分の立場をしっかり持ちつつ他者の考えを尊重できる寛容な考え方を指す。
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教義の違いで争うのは嫌いです。

世の大半を占める動物に関心の無い一般人は、「阿呆くさ」と離れていきます。


リベラルとは、民主主義の根幹です。

誰かの考えを自分の脳に移植するのではなく、
自分だけのオリジナルな考えをしっかり持つこと。
他人の考えと人格をしっかり尊重すること。

対話はそこから始まります。


他者の考えを否定する人は、民主主義を否定する人ということになります。

リベラルにおいては、他者の考えの否定だけがNGということになります。
ですから、表現の自由は、民主主義の根幹と言われるのです。


多様性こそが強さ、だと私は思っています。

2018年8月 2日 (木)

立ち去ることができなくて

以前に、「猫好きでもないのに、なぜ私は地域猫活動にハマっているのか」を書きました。

http://nekoma-jc.cocolog-nifty.com/chiikineko/2018/04/post-b357.html


実は、もうひとつ、思うところがあります。


約10年前に私が考え出した制度によって、多くの方の人生が変わったと思います。

なにしろ、出会った方々の大半が、まったくの初心者でしたから・・・。


もしかしたら、私が制度なんか作らなければ、平和に暮らしていたかもしれない、普通の地域住民だった方々・・・。


そのような方々が、様々な葛藤を抱えながら、現在も、地域を走り回っていることを考えると、私だけが、「もう自分には関係ない」とはとても言えず、ずっとずっと責任があるように思えてしまうのです。

誰ひとりとして、猫活動のために不幸になってほしくない。



いつも思い出すのは、傷ついて去っていった人たちです。

今でも、ひとりひとりの顔を鮮明に覚えています。

忘れることができません。


私はあの方たちに、一体何をすることができたのか。何をして差し上げるべきだったのか。


「本当に、申し訳ない」という思いが、私の原動力なのかもしれません。

2018年8月 1日 (水)

先人の後に続いて

もう約2か月も前の話ですが、6月に行政担当者向けの地域猫勉強会がありました。


特別講演として、「地域猫」という日本語を考えた張本人である、元・横浜市職員(現・神奈川県動物愛護協会常務理事)の黒澤泰さんのお話しがありました。

まさに王道である、地域住民自身によるノラ猫対策としての地域猫対策の進め方を、行政の視点から、スッキリ明快に説明してくださり、感動しました。

参加者はみんな行政マンでしたが、頭の中が綺麗に整理整頓されたのではないかと思います。



黒澤さんが、地域住民自身がノラさんを適正管理していき、それを行政が支援するという画期的な施策を始めたのが1997年。

もう21年前です。

まだこの世に「地域猫」という言葉が無かった時代です。
そりゃそうですよね。
「地域猫」という日本語は、その後、黒澤さんが考えたのですから。

概念自体も新しすぎて、地域の人たちに理解してもらうのには並々ならぬ苦労があったと思います。

先人が必死で道を切り開いてきたからこそ、今、私はこの道を歩けているのだということを、忘れないようにしたいです。



草創期の地域猫活動については、ホームページを御覧いただければと思います。

https://www.chiikineko.site/history

すでに行政は退職されましたが、精力的に普及啓発をされていて、頭が下がります。



ところで、私は、黒澤さんに以前から聞いてみたいことがありました。

そこで、会の打ち上げの席で、率直に聞いてみました。

「黒澤さんは、猫はお好きなのですか?」

「ぜんぜん(^^)/」

いつものニコニコ顔で、そう仰いました。

もちろん、「猫が嫌い」なのではなく、「好きでも嫌いでもない」とのことです。

あれだけの情熱をもって今も先頭を走り続けている方が、猫は好きでも嫌いでもない、と仰る・・・。

かく言う私も、猫は好きでも嫌いでもないので、激しく共感しました。
猫の問題でなく人の問題だからこそ、地域猫活動は底知れぬ魅力があるのだなぁ、と再認識したのでした。


私の場合、猫は好きでも嫌いでもないけれど、猫ボラさんは大好きです。
きっと黒澤さんもそうなのではないかなぁ・・・。

私も、微力ながら、先人の後を追って、やれることをコツコツとやっていきます。


(記事掲載を許可してくださった黒澤さんに心より御礼申し上げます。)

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