エサやりしちゃいけないんですかね?
あえて言います。
ノラ猫の数を減らすためには、対策の理に適ったエサやりが不可欠です。
対策の理に適ったエサやりってなんでしょう。
皆様には釈迦に説法かと存じますが・・・。
〔地域社会で困ったことになる恐れのあるエサやり〕
置きエサ。
- 長時間エサが置いてあるため、周辺地域からどんどん猫が集まってくる。
- したがって、いくら手術してもキリがない。
- いわば、「猫を集めながら手術している」という状態になる。
- カラスやハエも集まり、ご近所トラブルの元。
〔ノラ猫の数を減らすために不可欠なエサやり〕
毎日、同じ時間、同じ場所でエサやりし、猫の食後はすぐ片付けて清掃。
- 猫の腹時計は非常に正確。
- したがって、毎日同じ時間に同じ場所でエサやりをすると、ぴったりその時間に猫たちが集結するようになる。
- エサの時間に集結するので、頭数を正確に確認できる。
- 捨て猫なども、エサの時間に姿を見せるので、すぐに分かり対処できる。
- 捕獲もエサの時間にすればいい。一晩中の待機などはしなくて済む。
- すぐ片付けて、その後は絶対にエサを与えないようにすると、猫は、食後にエサ場にいても意味が無いことを学習して、食べたらどこかに行ってしまう。
- エサは出来る限り、頭数分に小分けにする。これにより、猫が順番待ちしながらエサを食べるのではなく、強い猫も弱い猫もみんな一斉に食べることができるので、エサやりの時間が非常に短縮できる。短時間のエサやりとなるので、苦情を言われにくくなる。
「ノラ猫対策のためにエサやりを禁止すると、それが原因でノラ猫対策ができなくなる」
という滑稽な状況になります。
ところが。
世間では、エサやりこそがノラ猫被害のを増やす元凶だと思われています。
この考えは、日本人の心の底にこびりついているようです。
「エサやり=迷惑行為」
エサやりしていると、それだけで注意されたりします。
我々の理屈で言えば、「置きエサは悪で、定点定時のエサは善」、ということで問題ないでしょうか。
私はエサやりしていませんが(そもそも愛猫家でない)、実は、どんなやり方であれ、エサやり自体がそんなに悪いものとも思えないのです。
たしかに、「置きエサ」は地域環境の悪化につながる危険が大です。
置きエサはしない方がいいのは、間違いないです。
でも、置きエサって、悪事でしょうか?
「正しい」エサやりと、「正しくない」エサやり、というような区分は好きではありません。
それは、愛猫家さん同士を「正義」と「非正義」に分断し、対立を招きます。
置きエサをしている方にしてみれば、悪意ではなく、むしろ、善意による行為です。
猫のことが心配だからこそ、人目を避けてでもエサやりを続けているのです。
エサの与え方のことは、あくまで「マナー」「エチケット」の問題であり、「ルール」とまでは思えないのです。
たとえば、ルールを決めて皆で監視したり、厳しく注意したり、特定の人以外のエサやりを禁じたり、というような、たかが猫へのエサやりで、そんな窮屈な地域って、住んでいて楽しくないです。
「みなさ~ん。猫のために、マナーは守りましょう。よろしくお願いしま~す(^-^)」
くらいのユルさが、私は好きです。
SNSなどで時々見かけるような、マナーを守らない(あるいは、守れない)エサやりさんのことを、厳しく非難したり、馬鹿にしたり、そういうのは嫌いです。
「おいおい、好き嫌いの話かよ」
と思われるでしょうが・・・。
地域猫活動は地域の人々の心を平和にするための活動です。
少なくとも、私の解釈はそうです。
猫が好きな人も、猫で被害に遭っていた人も、みんなが安心して暮らせる地域にすることが目的です。
地域のエサやりさんが、「ルールを守っていない!」と厳しく責められるならば、エサやりさんの心は、安心、平和からは程遠いことになります。
しかも、注意する側と、注意される側、どちらも愛猫家さんだったりします。
私は、
「エサやりさんが、安心してエサやりできる地域になったら、活動成功」
と考えています。
もちろん、様々な考え方があります。
エサやりしている方も、もちろん様々な方がいらっしゃいます。
人の心はそう簡単ではありません。
ですが、私としては、
「人の心に寛容な地域社会」
を目指したい。
こんなことを書いている私自身、イラつくことも多く、まるでダメではあります。
日々反省と後悔の連続ですが・・・。
猫にエサを与えている人、猫で困っている人、それぞれの心に寄り添うことを最優先に考え、対策の論理整合性については、「いい加減=良い加減」くらいの適度なユルさがある。
そんな風に対策を進められたら、きっと、みんなにとって楽しい地域活動となり、平和な地域になるのではないかなぁ、と思っています。
やはり、「地域猫活動は愛」ですね(^-^)