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2018年5月

2018年5月28日 (月)

楽な現場からやる

なぜか、ボランティアの皆さんは、過激で困難な現場に情熱を燃やすことが多いようです。

たとえば、どうしてもご理解いただけない方がいる現場とか。

 

私は、飼い主のいない猫対策は戦争のようなものだと思っています。

戦略上の重要拠点であるならば、多少の無理をしても攻略する必要があるでしょう。

ですが、ただ単に困難な現場だというだけで、意地になってその状況を突破しようとしていることが多いように思います。

 

困難な現場で10頭の猫の去勢不妊手術をするのと同じ期間とエネルギーで、普通の現場ならば、30頭いやそれ以上の猫の手術ができるし、地域の皆さんに普及啓発もできるのではないでしょうか。

 

普通の現場で勝利を重ねて、実績を街中にアピールしていく方が、困難現場で長期間停滞しているよりも、戦略的には断然に上手いやり方だと思うのです。

 

また、私の経験では、この世の全ては流転します。

何が言いたいのかというと、どんなに困難な現場でも、しばらく放置すると、状況が変わるのです。

たとえば、人が引っ越していたり・・・。

風が追い風になったその時こそ、突入のチャンスです。

何ごとにも、タイミング、チャンスがあります。

最終的な勝利を得ることが目的ならば、敵が強大で向かい風のときに、無理して突破を図る大将はいない、ということです。

 

だから、困難な現場にぶつかったときは、このまま一気に進むのか否か、いったん立ち止まって、クールな頭で考えることをお勧めします。

 

ちなみに、この考え方は、私のオリジナルではありません。

NPO法人ねこだすけの代表理事である工藤久美子さんから教わり、そして私自身の現場経験の中で「あぁ、本当にそのとおりだなぁ。」と思ったことです。

 

 

もうひとつ、工藤さんから教わった大きなことは・・・、

「失敗を引きずらない。いつまでもこだわらない。」

 

猫問題に限らず、どんなことでも同じですが、世の中、上手くいかないことも多くあります。

完璧を求めず、上手くいかないときは現実的な妥協も行い、少しでも前に進むことを考える、ということですね。

 

こうやって考えると、私、「地域猫活動アドバイザー」なんて自称して偉そうに理屈を垂れていますが、工藤さんに足を向けて寝られませんね。

 

他にもたくさんの方々・・・、「地域猫」の名付け親である元・横浜市職員の黒澤さんや、私にこの活動の面白さを教えてくれた元・新宿区職員の高木さんなど、先人が必死で切り開いた道を自分は歩いているのだということを、忘れないようにしたいです。

2018年5月18日 (金)

エサやりしないと対策できない

「エサやりするから猫が増える」

多くの人が信じ切っています。

 

ですが、本当は、

「エサやりしないと、猫が減らない」

です。

 

詳しくは講演資料を見ていただきたく思いますが、地域猫活動は、「エサを使って猫の行動をコントロールする」という側面があります。

 1 効率的に捕獲、手術をする。

2 流入してきた(あるいは捨てられた)猫をいち早く確認し、捕獲、手術する。

3 頭数の減少をきっちり把握していく。


 以上の3つは、毎日同じ時間、同じ場所に、エサを食べるために猫が集結するからこそ、実行できることです。

「毎日同じ時間、同じ場所」でエサやりすることを、「定点定時のエサやり」と言ったりします。

定点定時のエサやりのときに、捕獲もできるし、頭数チェックもできるし、見知らぬ猫の姿も確認できます。エサやりをしていないと、実態が把握できないので、対策しようがない状態となります。


 TNRと同じくらいに、「定点定時の」エサやりは、飼い主のいない猫対策の基本のキです。

 

ところが、「エサやりは良くないこと」と思っている人があまりにも多いのです。

ですので、対策を成功させるためには、一番最初の地域広報が生命線となります。

「エサやりは良くないこと」

ではなく、

「エサやりにはマナーがあります」

の徹底周知です。

(逆に言うと、「置きエサ」はマズイけれど、「マナーを守ったエサやり」は必要だということです。)

 

たとえば、以下のリンク先の「チラシ見本:活動開始」は参考になると思います。

NPOねりまねこさんが実際に地元で使っている広報チラシです。

https://nerimaneko.jimdo.com/地域猫ガイドライン-チラシ/

 

「地域猫活動がうまくいった地域」=「周囲の目を心配せずにエサやりできる地域」

だと思うのです。

 

でも同時に、どんなときも、猫で困っている人への気遣い(思いやり)は忘れないようにしたいものです。

その思いやりによって、飼い主のいない猫は、地域で安心して暮らせるのだと思うのです。

人をつなぐ活動

このブログは、主に、愛猫家の皆様を対象として書いています。

私は愛猫家ではありませんから、どちらかというとクールな(冷たい?)視点で物事を捉える傾向があります。愛猫家の皆様のご不興を買うこともあると思います。

ですが、愛猫家でないからこそ、見えている世界があると思っています。

 

「猫を大切にして、何が悪いんですか。小さな命に寄り添うことが、そんなに悪いことなんですか。」

 そういう声を聴くことがあります。

私の答えはこうです。

 「なにも悪くありません。その優しい気持ちは、とても尊いものだと思います。ただし、誰もが猫を愛する社会を作ることはできません。猫に対する思いは人それぞれです。猫を大切にしたいという思いと、猫が苦手だという思いは、どちらも平等に尊重されねばなりません。」

 

セミナー講師として呼んでいただくことが多くあります。

たいてい、会場は愛猫家の皆様で埋まっています。

ですが、私は絶対に、会場のどこかにふん尿被害などでお困りの方がいる、という前提で話をするようにしています。

お困りの方にこそ、私の講義によって、具体的な方策があることを知っていただき、安心していただきたいのです。

そうやって、被害者の方に安心していただくことによって、会場の大半を占めるボランティアの方々と同じ方向を向いていただき、気持ちでつながってほしいのです。

 

もしも、地域猫セミナーの会場において、皆が「猫を守ろう!」と盛り上がっていたとしたら、「被害対策の良い方法はないものか。」と思って参加した人は、強烈な場違い感、疎外感を抱くことでしょう。

 

その疎外感は、一般の方と、愛猫家の皆様との間を、決定的に分断します。

価値観の違いが浮き彫りになるからです。

 

地域猫活動は、価値観の違いによって人々を分断するのではなく、逆に、様々な価値観を持つ人々をつないでいく活動です。

 

価値観は人それぞれです。

価値観の違いに踏み込まずに、合理的な被害対策に特化すれば、地域の皆が、立場を超えて一致できます。第2回目のブログを御覧ください。

 

対策の具体的結果が出れば、互いの価値観を認める地域社会になります。

だから、まちが平和になるのです。

地域分断の原因だった猫が、今度は人と人をつなぐ役割を果たすのです。

 

 

あるボランティアさんから話を聞きました。

ある地域猫セミナーに参加したところ、愛猫家の皆さんで大いに盛り上がっていたとのこと。

ですが、そのボランティアさんは、会場にノラ猫被害者の方がいるはずだと確信していたので、会の盛り上がりによって、被害者の方が傷ついているのではないかと、心配になったそうです。

そこで、会の最後に、盛り上がりに水を差してしまうことを覚悟しつつ、こう発言したそうです。

「ノラ猫を可愛がるだけでなく、ノラ猫の被害で悩んでいる人がいるということを、我々愛護家は、常に頭の片隅に置いておかねばならないと思います。」

 会が終わった後、そのボランティアさんのところに、見知らぬ男性が近寄って来て、

「ありがとうございました。あの発言で、私は救われました。」

と仰ったそうです。

 

 

地域猫活動は、人をつなぐ活動。

地域の人々の心に安心をもたらし、人と人をつないでいくために、自らの価値観を一旦横に置いておくことができるかどうか・・・。

また、同質の価値観の仲間だけで盛り上がってはいないだろうか・・・。

 

 

どうしても愛猫家になれない私は、猫を愛する皆さんに対し、強い憧れにも似たコンプレックスを抱いています。

同時に、愛猫家でないが故に、色々と見えてしまうこともあります。

猫は愛せないけれど、ボランティアさんの優しさを愛する者として、愛猫家の皆さんにお願いしたいことがあります。

 どうか、猫たちが地域社会で温かく見守ってもらえるためにはどうしたらよいかを考え、一般住民を気遣う気持ちを持ってください。

そうすることで、結果的に、猫も、愛猫家の方も、地域で平和に暮らせるようになります。それは、経験上、断言できます。

2018年5月16日 (水)

猫の魅力をなめてはいけない

こんなタイトルにしましたが、まず最初に白状します。

私は、猫の魅力がちゃんと分かっていないと思います。

これでも結構、猫と関わっていまして、「面白い動物だなぁ」とは思うのですが、感情が入り込むことがありません。

私には、猫を好きになる才能がないのだと思います。

 

さて、前回の続きです。

「人への思い」は共感を得やすいけれど、「動物への思い」は共感を得にくい、と書きました。

動物との関わりによって人生が豊かになった経験がない人にとって、「動物への思い」は全く想像できません。

ですので、「かけがえのない命です。動物は素晴らしいものです。」といくら訴えても、まるでピンときません。

前々回に書いたように、「命の尊さ」は人それぞれ、主観的なのです。

 

動物との心の交流がない人にとって、その動物が生活被害をもたらす場合、単に「害悪」と認識されます。

そういう人にとっては、ノラ猫の被害も、ネズミの被害も、同じことなのです。

 

ところが、地域猫活動によって対策が進んでいくと、ふん尿被害者がノラ猫の里親になったり、激怒していた人がエサを与え始めたり、という異常事態?が生じることがあります。

それどころか、長年の仇敵であった、エサやりしている人と激怒している人が、仲良しになってしまうという、理屈では考えられないようなことも起こったります。

 

これはいったい、どんな魔法なのでしょうか。

 

第2回目のブログに書いたように、地域猫活動では、「誰のせいか」という不毛な議論はしないで、被害対策に特化して物事を考え、合理的かつ具体的な行動を取ります。

しかも、そのことを、地域に周知し、住民で情報共有をします。

 

1 地域への徹底した広報によって、どんな対策が行われているか、地域の皆が知っている。

2 中心となって対策を進める人(原則として、地域に住んでいる人)が、地域住民と「顔と顔の関係」となっており、人として信頼されている。

3 「あの人(たち)ならば、任せても大丈夫なんじゃないかな。」という安心感。

4 期間が経つと、対策の効果が表れて、被害が減少してくる。

5 「本当に効果があった。」という安心が地域に広がる。

6 被害が減った安心な状況の中で、改めて猫を見てみる。

7 もはや猫は、イライラの対象ではない。

 

7の状態になると、猫の魅力が人々の心を打ちます。

あんなに嫌いだった動物なのに、イライラがない状態で改めてみると、「結構可愛いかも」となります。

猫は、ダテに古代から人と暮らしているのではないのです。

人の心を強烈に魅了する力があるからこそ、人類は猫とともに歴史を歩んできたのです。

 

ミラクル発生のポイントは、以下の4点です。

1 地域の皆が対策方法を知っていること(周知徹底)。

2 対策の中心となる人が、地域から信頼されていること(顔と顔の関係)。

3 被害で困っている人、餌やりをしている人、色んな人の気持ちに寄り添うこと。

4 具体的対策によって、イライラの元を取り除くこと(具体的効果)。

 

1~4のどれが欠けても、ミラクルは起こりません。

逆に言うと、4つ揃うと、結構な頻度でミラクルが生じます。

 

一昨日に書いた「身近な存在を慈しむ」気持ちが、地域で共有されるのです。

それでも猫が好きになれない人も当然いますが(そのこと自体は責めるべきことでは全くありません)、もはや猫と交流する人を不快に思うことはなく、「猫が大切なんだなぁ。」と、微笑ましく感じさえするのです。

地域猫活動を行うことによって、誰もが覚えのある「身近な存在を慈しむ気持ち」が、動物好きか否かの壁を越えて、人の気持ちをつなぐ懸け橋となります。

 

 

上記1~4をやれば、あとは「猫が本来持っている魅力(魔力?)」が、勝手に地域の人たちを巻き込んでいきます。

取り立てて「命です!」と言う必要はないのです(かえって逆効果)。

猫の強烈な魅力を信じているならば、魅力のアピールは猫自身の振る舞いに任せるのが一番です。

 

 

私の経験ですが・・・。

ものすごい苦情者の方(ふん尿被害者)がいました。

理屈もへってくれもなくて、何を言っても聞いていただけなくて、ただひたすら、その方の「とっとと餌やりを止めさせろよ!」という怒鳴り声を何時間も聞いて・・・。

その地域のボランティアさんは、丁寧に丁寧に対策を行い、理不尽な文句を言われてもケンカせず、反論せず、その方の苦しい胸の内を聞きました。

 

それから何か月も経って、その方が感謝の言葉を仰いました。

「本当に助かったよ。ありがとう。」

そして、耳カットされている猫を見ながら言いました。

「こいつらもさ、一所懸命生きているんだよな・・・。」

 

 

こんな経験を重ねて、私は、この世界にどっぷり浸かってしまいました。

猫の魅力も十分に分かっていないのに(^^;

でも、「人間って、いいな」と思うのです。

そう思わせてくれた地域猫活動に感謝しています。

2018年5月14日 (月)

行政と協働しないと地域猫活動ではないのか?

全国では、諸事情により、まだ行政が具体的な飼い主のいない猫対策をしていない地域もあると思います。

実際の対策は、もちろん、地域住民ボランティアさんが中心となって行うものですが(「地域の問題、地域で解決」ですので)、それを行政が支援するとしないとでは、対策の進み方や、他の住民の皆さんの理解がまるで違ってきます。

 

地域猫活動は、「住民、ボランティア、行政の三者協働の活動」と言われます。

それが望ましいことは間違いないのですが、「三者協働でなければ、地域猫活動とは言えない」かというと、そうとも言えないと私は思っています。

 

地域猫活動の主役は、地域住民です。

地域住民の皆で理解、協力しながら進める、とても合理的な「飼い主のいない猫対策」です。

目標は、飼い主のいない猫の個体数を減らし、被害を減少させ、猫がいてもイライラしない地域社会をつくること。

 

とすると、もしも、行政や、広域的な猫ボランティアが関わっていなくても、地域の有志が住民の皆さんに声をかけながら、皆の理解と協力の下できちんと対策を行っていて、その地域での猫に起因するイライラが除去されているならば、それは立派な地域猫活動だと思うのです。

 

地域猫活動とは、典型的な地域活動なのですから。

地域清掃などと同じです。

 

行政、ボランティア、地域住民の三者協働が理想であることは、まったく揺るぎません。最終的には、そこを目指していくべきです。

 

ですが、地域事情は様々です。

行政の事情も様々。

広域ボランティアさんがいない場合もあります。

 

住民有志(私は地域ボランティアさんと呼んでいます)が、他の地域住民と相談、連携しながら、みんなでワイワイと猫対策をして、住みやすいまちづくりをしていくこと。

これこそが、地域猫活動だと思うのです。

 

その地域活動に対し、専門知識のあるNPO等や、行政が、しっかりバックアップすることで、さらにスムースで、安定的な活動になっていきます。

 

専門ボラと行政の二者協働や、専門ボラのみの一者活動は、地域活動ではないので、地域猫活動とは言えないと思います。

 

ですが、専門ボラと住民の二者協働、たとえば、専門的なボランティアさんが、地域住民を巻き込んでワイワイと活動しているならば、地域猫活動と言えるのではないでしょうか。

あるいは、住民のみの一者活動、たとえば、前述したように、住民有志が他の住民と相談、連携しながらワイワイと猫対策をしているならば、地域猫活動と言えるのではないでしょうか。

 

繰り返しますが、地域猫活動は、典型的な地域活動です。

主役は、そこに住んでいる地域の方々です。

 

しっかりと住民の方々が関わっているかどうか、ここがポイントだと思います。

だからこそ、活動においては、地域住民の方々への広報が最重要になる訳ですね。

 

今日は、思いつくままに書きましたので、今ひとつまとまりがないですね(^^;)

ですが、これが私の本音なのです。

皆さん、どのように思われますでしょうか・・・。

「慈しみ」と「猫の魔力」

前回の続きです。

 

私にとって、命の尊さとは、私にとって相手がどのような存在なのかで決まる、極めて主観的なものだと書きました。

私にとってかけがえのない、家族や、家族同然のオカメインコが亡くなったら、心に大きな穴が開きます。
一方、遠い国の会ったことのない人が、どれだけ悲惨な事件で亡くなったといても、人生を揺さぶられるような悲しみに襲われることはありません(大きな社会問題として認識することはあると思いますが)。

ところが、この極めて主観的な価値は、同時に普遍的でもあると思うのです。

 

自分にとっての、かけがえのない大切な存在。

その存在を慈しむ気持ち。

親が子を思う気持ち。
子が親を思う気持ち。
大切な友を思う気持ち。
家族同然のペットを思う気持ち。

それは、誰にでも覚えのある思いです。

 

もしも、辛く苦しい人生の中で、そのように思える存在が周りにいなかったとしても、それでもその人は、慈しむ相手を探し続けて人生を歩んでいるのではないでしょうか。

どれほど不器用な生き方をしている人も、心の奥底では、誰かを慈しみたいと願っているし、誰かに愛されたいと願っています。

その感情に覚えがあるならば、誰かが慈しんでいる存在について、たとえ自分自身はその存在に特段の思いはなくとも、「ああ、この人にとっては、かけがえのない存在なのだなぁ」と、その人の「慈しみ」に共感できます。

身近な存在へのごく自然な慈しみの気持ち。
この「自然な慈しみの気持ち」は、価値観の違いによって分断されている我々をつなぐ、唯一の架け橋であり、希望なのではないか、と思っています。

 

ところが、ここで、大きな問題があります。

 

親、兄弟姉妹、友人など、大切な人に対する思いは、大半の人に覚えがあるので、とても共感を得やすいです。

一方、動物に対する思いは、動物に人生を豊かにしてもらった経験がある人以外には、共感を得にくいです。

 

経験のない人には、どれだけ説明されても、動物の魅力は分かりません。

なぜそう言い切れるのかというと、私自身がそうだからです。

飼い主(あるいはボランティアさん)は「うちの子」「この子」と呼びますが、動物に関心のない人にとっては「犬」「猫」です。

どれだけ一所懸命に、動物の魅力をアピールしたとしても、動物の良さは、経験したことのない人には伝わりません。

 

生まれつきの性格、という面もあるかもしれません。
私は、物心ついたときから、犬や猫はどちらかというと苦手でした(今はだいぶ違いますが、それでも、愛護家からは程遠いです。)。
ウチの息子は、物心ついたときから、何も教えていないのに、なぜか犬や猫が大好きです。

それでは、「うちの子」「この子」と呼ぶ人と、「犬」「猫」と呼ぶ人との分断を、乗り越えていくことは不可能なのでしょうか。

 

私の考えでは、不可能ではありません。特に猫の場合は。

 

それを解くカギは、猫の「魔力」にあります。
つづきは、次回に・・・。

2018年5月13日 (日)

命の重さ

飼い主のいない猫の問題に関わるようになってから、「命の重さ、っていったい何だろう」と、ずっと考え、自分の魂の動きを観察し、あるいは想像してきました。

率直に書きますと、私にとっての命の重さは、みんな平等なのではなく、以下のような感じです。

 

最も大切なのは、息子の命です。

息子とほぼ同じくらい大切なのは、女房の命です。

つぎに、実家の両親や女房の母親の命です。

つぎに、妹や妹の子(甥っ子)の命です。

つぎに、長い付き合いの親友の命です。

つぎに、家族同然のオカメインコの命です。

つぎに、友人たち、親戚の人たち、知り合いの人たちの命です。

そこから先は、お付き合いの深さによります。

 

遠い国では、今日も、私の会ったことのない人が、悲惨な事件に巻き込まれて命を落としています。

けれども、私は悲しくない。

それよりも、ウチのオカメインコが死んだら、しばらく立ち直れないでしょう。

それどころか、一生、心のどこかに穴が空いた状態になるでしょう。

 

「遠い国の人間の悲惨な死」<「我が家のオカメインコ」

 

1羽のオカメインコよりも、ひとりの人間の死の方が重大なはずです。

なのに、この私の心の動きは、いったいどういうことなのでしょうか。

私は、酷く矛盾した人間なのでしょうか。

 

あくまで私の場合ですが・・・。

私の「仲間」の命は重い。私の「仲間でない」命は重くない。

 

「命の重さの順番」=「私の思い入れの順番」

 

では、「私の思い入れ」って何でしょうか。

 

私の息子は、私という自我の中で大きな位置を占めています。

つまり、私の自我の一部です。私という存在の一部なのです。

女房についても、同じことが言えます。

オカメインコも、同じです。

たかが1羽の鳥ですが、私にとっては、とても大切な仲間なのです。

 

「私の思い入れ」とは、私の一部であるかどうかということ。

 

私の心に占める割合が小さくなるにしたがって、私の中での命の大切さも薄れます。

すべての命を平等に大切に思う、ということは、私の場合にはありません。

したくても、できないのです。

毛虫の命は大切に思えないし、蚊が部屋にいたらば問答無用で叩きます。

哺乳類の場合、ネズミは本当に苦手です。というか嫌い。

 

 

私にとって、命の尊さとは、極めて、極めて、主観的な価値なのです。

 

 

息子(小学5年生)の担任の先生が、子ども達に言ったそうです。

この先生、上場企業でかなり勤めてから教師に転職したという変わり種で、私は大好きなのです。

「お前ら、自分の命を大切にしろよ。それから、友達の命もだ。命がなんで大切なのか分かるか。お前らは、親御さんや家族に大切にされて、こうやって今、学校に来ている。一所懸命にお前たちを思ってくれる人たちの思い、これだ。これが命の大切さだ。」

 

いや~、いい先生に見てもらって、ウチのチビも安心です。

 

 

ところが・・・。

地球(大自然と言い換えてもいいです)という視点に立つと、命の価値に全く差はありません。

細菌やウィルスでさえ、役割をもって、この地球上に存在しています。

近年、ウィルスが生物の進化に大きく関わっている可能性が指摘されているそうです。

すごいですね、ウィルス。

南方熊楠は「世界に不要のものなし」と言いました。

さすがですね。

私も、本当にそのとおりだと思います。

大自然に、「いい命」と「よくない命」があるはずがありません。

 

みなさんはどのように思われますでしょうか。

話はまだ続きます。

2018年5月 8日 (火)

どこまで頑張ればいいの

まず最初に、昨日の記事のフォローから。

昨日の記事、上っ面の綺麗事を書いているなぁ、と思われたかもしれません。

ですが、丁寧に(相手の立場も考えて、ある程度は妥協しながら)信頼関係を築き上げる方式によって、これまで、私の知っている事例では、100%の勝率なのです。

ホントです。

「お互い様」って、日本人の偉大な文化だと、私は思うのです。

 

さて、今日のテーマです。

現役担当者だった時代から、今日に至るまで、色々な人から「疲れました。私にはこれ以上は、もう無理です。」という相談を受けてきました。

 

猫が好きな訳でなく、純粋に対策として地域猫活動をした方から、そのような相談をされることは、ほとんどありません。

淡々と、手早く、やるべきことをやって、自分の地域のTNRが終わったら、あとはメンテナンスモードになりますので、疲れ果てることがあまりないのは当然です。

 

一方、「猫を助けたい!」と活動している方は、強い情熱を持っている分、どうしても無理をしがちです。

相談を受けるたびに、その方にとって何が一番良いことなのかを、私なりに考えてきました。

事情は人それぞれですから、当然ながら答えは一律ではないのですが、「何よりも、ご自身とご家族の生活を最優先させてください。」と答えることが多かったです。

 

自分や家族の生活がきちんと成り立っていないならば、何か他者(私たちのテーマでいえば、地域住民および猫)を助けることはできません。

溺れている人を助けることができるのは、当然ですが、自分でちゃんと泳げる人です。

それどころか、単に泳げるだけでなく、人を抱えて泳ぐ余力のある人だけが、溺れている人を助けることができます。

 

自己犠牲は美学ではない、というのが私の考えです。

(過激な言い方なので、異論があるかもしれません。)

 

ボランティアとは、自分の人生を豊かにするために行う、自主的な社会貢献活動であると思っています。

不本意に何かを犠牲にして、泣きながらやることではないと思うのです。

 

もちろん実際には、時間的にも金銭的にも、持ち出しはあります。

ですが、それはいわば、「自分自身のために」自主的に払う対価のようなものであって、自己犠牲ではないと思うのです。

完全な自己責任で、見返りなしに、自分の力で社会にコミットしていくとき、多くの刺激を受け、色々なことを感じ、考え、自分自身が変わっていくのを感じます。

だから、ボランティアは楽しいし、どこまでも自由です。

少なくとも、私はそうです。

 

私の場合は、ほぼ趣味と言ってもいいかもしれません(実際、家族や職場には「趣味です。気にしないでね。」と言っています。)。

「正しく立派なことをやっている。」なんて思いたくないし、思われたくないのです。

「正しい」などという自分にしか通用しないメジャーを持ち出した途端に、活動の純粋性や自由さを失いそうな気がするのです。

 

「あなたのために私はこんなに犠牲を払って頑張っているんです。」などと思われたい人はいないと思います。

私ならば、「そのようなことを思うくらいなら、いっそのこと放っておいてほしい。」と思います。

「猫のために、私はこんなにも沢山、人生の大切な物事を犠牲にしてきました。」と言うことは、(愛猫家でない私ではありますが)かえって猫に失礼なのでは?なんて思ったりします。

 

だから、「もしも辛いのなら、無理することはない」し、「自分や家族の生活を犠牲にするなんて、もってのほか」だし、「楽しくないのならば何かが間違っているので、楽しくない原因をきちんと究明し、楽しい活動に変えていかないと、貴重な人生の時間を費やすにはもったいなすぎる」というのが、私の考えです。

 

本日は、少々過激な言い回しがあったかもしれません。

誰かを傷つける意図は全くありませんので、その点だけはご理解ください。

こんなことを書いていますが、ついつい無理をして頑張ってしまう愛猫家さんが、実は大好きです。

何故なのでしょうかね。書いたことと矛盾していますよね。

たぶん感情の問題なのだと思います。

一所懸命な人って、感情が揺さぶられるし、応援しないではいられない。

ということなのだと思います。昔から涙腺弱いし。

だからこそ、無理をしないでほしいなぁ、って強く思うのかもしれませんね。

2018年5月 7日 (月)

「うちの行政は・・・」

行政側との付き合い方が分からない、という声をよく聞きます。

「やる気がないからダメだ」なんていう声も・・・。

私の思うところを以下に記します。ヒントになればよいのですが・・・。

 

1 行政マンは、組織の一員です。ですので、独断で何か新しいことを決めることはできません。
一般の会社員の方も、自分だけで新しい事業を決めることはできず、上司と相談して、組織として決定していると思います。
行政マンも同じです。
したがって、担当者に一方的に何かを要求しても、問題は解決しません。

2 行政マンは、市民から預かった血税を使って仕事をしています。
血税(=公金)を使っている以上、「市民生活の向上」が行政の命題であり、「猫の命を守る」ことよりも優先されます。
ですので、「飼い主のいない猫対策は、市民生活の向上につながる(=市民の困りごとが減る)」という論点が、重要なポイントになります。

3 結局、誰と何をする場合でも同じだと思いますが、信頼関係をいかに構築するかに尽きます。
行政マンも人間ですので、地域社会のため(=市民生活のため)に良心的に頑張っている人を見れば、「ありがたい」という気持ちになります。
そうやって、信頼関係が出来上がってくれば、物事は前に進みやすくなります。

関係が出来てきたら、地域猫活動セミナーの開催をお勧めします。地域の方、ボランティアさん、行政が、セミナーという同じ場でともに学ぶことは、意義深いことだと思います。

 

もちろん、現実には、色々なことがあると思いますが・・・。

私の思うところは、こんな感じです。

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